学者にはぐくまれて―雄松堂書店史の断面―

芳水康史 編
雄松堂書店広報誌『PINUS』4号(1982年3月20日発行)掲載

  • 創業以前
  • 雄松道書店の創業
  • 戦後の再起
  • 株式会社雄松堂書店の設立

雄松堂書店の創業(神田 三崎町通り)

「雄松」の看板をかかげて

創業のころの新田勇次
▲創業のころの新田勇次

三崎町通りの雄松堂書店
▲三崎町通りの雄松堂書店

たまたま神田区仲猿楽町17番地(現在の神保町2丁目24番地)に、文房具店を廃業したあとの空家があった。彼は権利金200円、家賃45円で契約、昭和7年(1932)10月1日、ここに「雄松堂書店」の看板をかかげた。「雄松」は愛書家、斎藤昌三氏の命名である。独立にあたって、懇意だった斎藤氏に相談すると、勇次にちなむ「雄」と巌松堂の「松」を選び、木製の看板に「雄松堂書店」と墨書してくれた。

彼の店は、現在のいわゆる三崎町通りにあったが、そのころ三崎町通りの西側には古書店はほとんどなかった。『東西書肆街考』は「昭和10年頃に神保町の南側が飽和状態となり、ようやく三崎町通りの西側にも古書店がふえはじめた」と記している。すなわち独立してはじめて店を出す若い人たちによって、三崎町通り西側が古書店街に成長していくが、雄松堂はいわばその先駆けのひとりであった。

はじめは、斎藤昌三氏らの指導で、明治期の文学書に力をいれ、併行して教科書を扱った。そのころ中学校以上の教科書は個人で買っていたので、古本市が成立し、神田小川町の古書会館で定期に交換会が開かれていた。文学書は客の求めるものが特定の作者のものにかたよりやすく、売れる本を集めるのに苦労した。

しばしば遠い田舎の旧家にも訪れた。ある日、買出し広告に応じて茨城県の水郡線のある駅で降りる旧家から、「古い蔵書を売りたい」というはがきが届いた。大きな風呂敷を用意して、期待して行ってみると、かついで帰る価値のないものばかりだった。「ほかに何か…」とたずねると、木箱に入った約10枚の皿を出してきた。小名浜沖で加賀藩の船が難破したとき、その救助に力を貸した謝礼としてもらったものである。それを買って、重い荷物を背負って帰った。古道具屋が聞きつけて訪れ、さんざんけちをつけてから、その1枚だけ譲ってほしい、という。けちをつけられたのに腹を立てて譲らず、東京美術倶楽部の即売会に出品すると、百円で売れた。その1枚だけは「古九谷」のよいものだったらしい。

長野県の小海線に乗って、池田英泉のうちわ絵を数10枚買ったこともある。交換会に出すと、「早や出てきたか」という声がきこえた。初刷りでなく後刷りのもので、ある人が田舎に埋めておいたものであった。ともに買出しの失敗であった。以後、自分の眼力を信頼できる書物のほかには手を出すのをやめた。

古書目録「竹帛」
▲古書目録「竹帛」

社会経済資料目録
▲社会経済資料目録

このように創業初期には、いろいろの失敗もあり、ただ一般的な古書を扱うのではなく、店としての特徴を打ち出す必要を感ずるようになった。テーマをもった古書集めである。こうしてだんだんに社会科学書に重点をおくようになった。彼は昭和8年5月から、古書目録を「竹帛」と題して発行しているが、昭和9年11月から社会経済史文献の特集をはじめている。そして以後、古書目録というより「社会経済資料目録」として発行することがふえている。

そのころは、日本資本主義論争のもっとも激しい時期であった。彼はこれに関連する書物とともに官庁の報告書なども多く集めた。山田盛太郎(『日本資本主義分析』の著者)、土屋喬雄(『近世日本農村経済史論』の著者)、服部之総(『明治維新史研究』の著者)の各氏をはじめ、論争の主役たちがしばしば店に顔をみせるようになった。そして「カタログの出る前に資料がほしい」と催促されたこともある。

そのころの思い出を、渡辺信一氏(名古屋大学名誉教授)は、「雄松堂は独特の風格をそなえた古書店として日本資本主義論争のはなやかな頃デビューした。独特の風格とは、営業のねらい所が非常にはっきりしているということであったが、しばらくすると、いま一つ意味が加わった。情勢の変化に対応する勘と踏切りの鮮かさである。激動の世に処して今日ある、故なしとしない」(「40周年リーフレット」)と語っている。高村象平氏(慶応大学名誉教授)も、「神保町のお店には戦前何回かお邪魔した記憶がある」という(「40周年リーフレット」)。こうした一流学者の求めるもの、その助言が彼の古書商としての感覚を鋭敏にしたのである。

しかし、昭和11年(1936)7月、山田盛太郎ら講座派学者や左翼文化団体関係者が一斉検挙され(コム゠アカデミー事件)、12年に山川均らの第一次人民戦線事件、13年に大内兵衛ら教授グループの第二次人民戦線事件に象徴されるように、社会科学の研究に対する弾圧が強まり、彼はまた新しい方向を模索しなければならなくなった。

バックナンバーもの

昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋で勃発した日中戦争は、日本の経済を戦時体制へと急速に展開させた。9月に臨時国会が招集され、軍需工業動員法を可決、翌年1月には一部工場が政府管理となり、その4月には軍需工業動員法を廃止して、より広範な国家総動員法が公布された。そしてこれに対応する研究機関、国策会社、軍管理工場が数多く生まれた。

彼は、これら諸機関の研究資料整備の動きに着眼して、学術雑誌のバックナンバーを営業の中核にすえた。昭和12年1月発行の「竹帛」第15号に、「学術雑誌を豊富に取揃えました。これはあくまでサービスの心算で、安く、而も必ず御間に合はせる事を本位と致します」と広告し、「ストーブの傍でゆっくりと腰を下してお茶を召上り乍ら調べられるのが雄松堂の特徴で御座います」と書きそえている。そのストーブ談義のなかで、研究者が求めているものが語られ、彼に学術雑誌サービスの新しい発想が浮かんだ。バックナンバーは創刊号からそろえて商品とするのが普通であるが、彼は逆に最近号からさかのぼって、10年分あるいは20年分という形でまとめた。軍関係の研究には、とくに理工系のデータが求められており、古い研究よりも新しい進んだ研究が緊急の要請にこたえられる、という認識からである。

昭和13年(1938)9月に開設された東亜研究所は、近衛文麿総裁のもとで豊富な予算をもち、持ち込んだ書物や資料をすべて買い集めた、という。彼はこの東亜研究所のほか軍需工場の資料室によく出入りした。これらの工場に監督官として派遣された技術将校は、研究資料の整備を強調したからで、工業技術書とともに「電気学会雑誌」「自然科学」などの理化学関係学術雑誌のバックナンバー集めに熱中し、彼らの需要に応じた。とくに不二越鋼材、日本鋼管、中島飛行機などは印象に残っているという。

しかし、太平洋戦争がはげしくなるにつれて、昭和18年(1943)ころから営業活動はほとんど休止の形となり、妻子を郷里に疎開させた。やがて東京も米軍機の空襲にさらされるようになった。昭和20年(1945)4月13日の空襲は、三崎町・小川町方面の本屋街を焼いた。雄松堂もまたその災禍をまぬがれることはできなかった。神保町の本屋街は無事であった。わずかな距離が幸運と悲運を分け、彼は悲運に涙しながら、ひとり郷里への道を急いだ。

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