学者にはぐくまれて―雄松堂書店史の断面―

芳水康史 編
雄松堂書店広報誌『PINUS』4号(1982年3月20日発行)掲載

  • 創業以前
  • 雄松道書店の創業
  • 戦後の再起
  • 株式会社雄松堂書店の設立

戦後の再起(文京区 小石川)

小石川で再起

昭和7年に彼は独立すると同時に、静岡県引佐郡細江町生まれの春子と結婚、2男3女をもうけている。長男満夫が中学に進むことになって、翌21年、都田村から浜松に移った。そこで彼は運輸会社につとめながら、「必ず東京へ出て行く」と自分に言い聞かせて働いた。

この戦後の混乱期は、雄松堂書店史としては空白の時代であり、家庭としてはもっとも苦しい耐乏生活を強いられていた。春子は、いつも明るい笑顔で、しっかりと守った。彼女は美しく健康で、やさしくおおらかであった。神保町の店では、外出した彼に代って店頭にすわり、その明るさは若い学者たちに人気があった。そして、戦後の苦境の日々も、彼をはげましながら、ゆったりと再起の日を待った。

24年(1949)3月に、満夫が東京の高等学校に進学するのにともなって、東京に出た。本郷菊坂町の稔書房の平井稔氏の好意で、その庭にバラック住いしたが、翌年には、文京区小石川表町92番地(現在の小石川2丁目17番地11号)に移った。

ここで、株式会社雄松堂として古書の営業を再開した。株式会社といっても、実質は彼と妻との小さな古書店であり、神田の本屋街を離れているので、店頭の小売りは期待できない。おもにカタログによる通信販売であり、自転車でこまめに大学図書館をまわった。洞富雄氏は早稲田大学の図書館で富永牧太氏は天理図書館で、彼の再起をはげました。

古書のほかに、図書館用品を売ったりしたこともある。模索する日がつづいたが、彼は営業の中心にバックナンバーものをすえた。しかし戦時体制のときのような理工学・技術関係ではなく、法律・経済・心理学などの学術雑誌であった。多くの大学では、戦時体制のなかで社会科学系の整備が中断され、あるいは戦火で焼かれていたからである。また20年代の後半は新制大学がスタートし、その昇格認可には蔵書量がひとつの基準となっていた。ここでも学術雑誌の需要が高まっていたが、その波にのって、彼は洋書の輸入を手がけはじめた。外貨不足で輸入は困難な時期であったが…。

彼と洋書との結びつきは、もっと早い時期にもあった。昭和10年夏の「竹帛」第7号に、山田秀雄氏(日大教授)の洋書コレクション294点のカタログをのせ、14年4月の「東亜関係経済資料目録」のなかに、中国および日本関係のBlue Bookを特集している。こんどはもっと手広く、ロスマン(Fred B. Rothman & Co.) クラウス(Kraus Periodicals, Inc.) ジョンソン(Johnson & Co., Inc.) キャナー(J. S. Canner Company)各社と取引きするようになり、洋書バックナンバーの販路を、大学図書館や研究室に開いた。Harvard Law Review, Colombia Law Review, Journal of Political Economyなどはその一部で、ケインズ経済学のEconometricaも需要の多い雑誌であった。

天理教真柱の中山正善氏は、国際的なコレクターとして知られ、彼もしばしばその収集に協力したが、31年(1956)に長男が早大を卒業するにあたって相談したことがある。中山氏は「古書業界も、これからは海外に目を向けて、国際的な活動をする必要がある」という意見で、「アメリカの業界で苦労させよ」と言った。そして渡米したときに彼地の業者と交渉してくれた。満夫は卒業するとすぐアメリカに渡り、まずロスマン社、ついでクラウス社で、洋書業界の動きを体得するとともに、図書館学も勉強して、半年後に帰国した。そのころ古書商としては珍しい海外留学であった。

満夫は、修業みやげとして、アメリカの科学雑誌の最近5年間ほどのバックナンバーを扱うことをはじめた。その一部を、アメリカと交流のない中国に売ったこともある。

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