学者にはぐくまれて―雄松堂書店史の断面―

芳水康史 編
雄松堂書店広報誌『PINUS』4号(1982年3月20日発行)掲載

  • 創業以前
  • 雄松道書店の創業
  • 戦後の再起
  • 株式会社雄松堂書店の設立

株式会社雄松堂書店の設立(新宿区 四谷)

マイクロフィルム

四谷1丁目の社屋
▲四谷1丁目の社屋

国際的感覚を身につけた長男は、「洋書の輸入によって日本の文化に寄与する」ことを一生の仕事と決意して、新しい近代的経営をめざした。和本の古書で育ち、いまは通信販売を主体とする彼の方針とは異質であり、しばしば意見を異にした。新田家にとっても、雄松堂書店史においても、大きな転機が訪れたわけであるが、彼は息子の意見を圧しつぶすことはしなかった。自由に活動することを認め、春子もまたおおらかに見守った。

そして35年(1960)2月、満夫は新宿区四谷1丁目17番地に約50坪の木造2階建社屋を借り、払込資本百万円の株式会社雄松堂書店を設立した。小石川時代は「雄松堂」であるが、ここで創業時の「雄松堂書店」にかえり、社長を満夫として四谷時代の幕がひらいた。彼はその会社の会長として、若い世代の国際感覚を自由に発揮させるため、経営の実務から退いた。

しかし、彼の事業への情熱はまだ盛んであった。昭和37年(1962)アメリカに渡って、ミシガン州アナーバー(Ann Arbor)のUMI(University Microfilms International)社を訪れた。マイクロフィルムはすでに日本でもつくられていたが、これを出版事業として成り立たせる方法をここで学び、同社の日本総代理店となるとともに、雄松堂フィルム出版有限会社を設立した。

最初に作成したフィルムは、明治初期の「府県史料」である。太政官布告による各府県からの歴史調査報告で、地方史研究の基本となるものである。つぎは「府県統計書集成」で、十数年を費やして明治6年頃から昭和47年までを1,460リールに収録している。史料集・文書・統計など、いまでは約60のタイトルを収録し、研究資料の保存のためのユニークな活動をつづけている。

出版事業の復活

『霞む日』の出版広告
▲『霞む日』の出版広告

彼は古書を扱う年月のなかで、流通市場から消えている貴重な資料を復刻する必要を痛感していた。そして本つくりも巌松堂のころから心得ていた。昭和7年の夏、巌松堂刊の田中敬著『粘葉考』は彼が編集したが、その秋独立すると、一茶の真蹟句稿『霞む日』を斎藤昌三の校で復製した。越前の鳥の子紙を用い、オフセット5度刷りの愛蔵本である。ついで田中敬著『汲古随想』社会経済史料叢刊として、大蔵省主税局編『沖縄法制史』同『伊豆七島旧慣租税法』岡山県内務部編『旧藩時代に於ける社倉制度』農商務省編『職工事情』田中芳男著『日本物産年表』などを限定版で復刻している。

会社は洋書の流通が中心となって発展しているが、彼は創業のころの出版を忘れることができなかった。出版事業は彼にとって郷愁であり、宿願のひとつであった。そして東京オリンピックの開かれた昭和39年(1964)それを会社の新しい事業として本格的にスタートさせた。

まず『アジア協会紀要』(Transactions of The Asiatic Society of Japan. vol.1~49)を復刻した。会社は「東西文化の交流」をもっとも重要なテーマとしているが、その基調にふさわしいものであった。41年からは、改訂復刻版『異国叢書』をはじめ、43年から岩生成一・岡田章雄・洞富雄・沼田次郎氏らの編集で『新異国叢書』全15巻を刊行している。さらに天理図書館本の復刻『クラシカ・ヤポニカ』、全訳『シーボルト「日本」』、復刻版『ジャパン・パンチ』など、日欧交渉史関係書で出版事業の主柱を形づくっている。

このほか国文学・教育・経済・古地図など、いま出版の分野は大きくひろがっているが、彼の出版には、手すき和紙を多くつかっていることが、ひとつの著しい特徴である。

和紙への愛惜

四谷1丁目の社屋と社員たち
▲四谷1丁目の社屋と社員たち

巌松堂の徒弟のころから、明治期につくられた洋装本にくらべて、もっと古い和装本がより美しく原形を保っていることは、彼にとって忘れられない感動であった。そして「民法改正案審議録」の復製本に、細川紙を買いに行かされてから、いつか和紙の本を自分でつくりたい、と思うようになった。

創業のころの『霞む日』は、その夢を実現したものであったが、そんな本づくりを復活するには長い空白があった。もちろん、その間にも、和紙の本やダード・ハンターらの洋書を自分で集め、娘が大学の卒論に和紙をテーマとしたときは、喜んで協力したが、洋書主流の機構のなかで、和紙を用いる本づくりの機会はなかなか訪れなかった。

そして昭和47年(1972)にようやく、和紙を使うにふさわしい企画が生まれた。『古辞書叢刊』である。書誌学者川瀬一馬氏とともに栃木県の足利学校遺跡図書館を見学したとき、その宿で構想が浮かび、原装で復製することになった。原装のためには、手すきの和紙を調達するほかない。

しかし、昭和10年ころとは和紙の生産事情に雲泥の差があって、高価であった。48年1月刊の第1回配本『和名類聚抄』は、ある紙問屋から仕入れたが、そのコストでは続刊が危ぶまれるほどであった。そこで彼は埼玉県小川町の県立製紙工業試験場を訪ねて、和紙を出版に使えるようにする方策を問いかけた。

この問いかけは、和紙業者にとってもきわめて重い意味をふくんでいた。和紙の衰退は、出版業界に見放されたことが大きな要因だったからである。そして小川町の数人の紙すきが、この紙つくりに協力することになった。こうして復刻された『古辞書叢刊』は好評であった。彼は、そのPRに「一千年の風雪に耐えてきた古辞書をさらに一千年の将来に伝える」とうたっている。手すき和紙のたくましい強さを信頼し、いのちの長い本をつくり得た感激を、こう表現したのである。

その後、『古典籍叢刊』『テレキー西欧古刊日本地図帖』『西欧古刊日本図精撰』『宋版王右丞文集』『吉利支丹版集録』『クラシカ・ヤポニカ』などにも、手すき和紙が用いられた。木材パルプ原料の機械すきを「特漉和紙」と呼ぶ出版物が多いが、これらは手すき和紙のほんものである。経営者の和紙への理解と英断があってはじめて刊行できた本である。

こうして彼の和紙好きはさらに高まり、『手漉和紙聚芳』『同国際版』『和紙生活誌』の編集に展開し、『細川紙誌』は、本文だけでなく表紙も抜き模様の技法で標題を記す和装本をつくり、武蔵の紙すきたちの協力に感謝している。和紙のすばらしさ、その伝統を愛惜する篤志のひとりである。

四谷での新しい発展

勇次の長男、満夫が社長となって、新宿区四谷1丁目に設立した株式会社雄松堂書店の、初期の社員は15名であった。いま会社の幹部を形成する荒木清式、川嶋民男、沢井静夫、西浦信義、清水弘文、横山勝行らは、この若い会社に参加した若者たちであった。33年に明大を卒業した次男・篤夫も、他の会社づとめをやめて、兄とともに活動することになった。

彼らは、アイデアゆたかな若い社長を中心に、販路開拓の論議を重ねた。そのころは、いわゆる経済の高度成長期であり、研究機関や大学図書館が内容の充実を急ぎ、洋書の需要が激増したときでもあり、経営は順調であった。35年度の売上げは5千万円であったが、37年度には3億円を突破したという。バックナンバー、リプリントなどのゆたかな情報を提供し、誠実迅速に洋書を届ける社風が顧客の信頼を得たのである。

国際的な視野で古書・文献を収集し、日本の学界の研究資料を豊富にすることに、社員は情熱をもやした。「書物の流通によって文化の交流を促進する」という使命感は、いわば雄松堂精神といえるものであり、これを新しい会社の若者たちがはぐくんだのである。

42年(1967)の創業35周年には、京都に関西営業所を開設して、篤夫が初代営業所長となった。彼は営業活動にすぐれた才能をもち、いまの中堅社員は彼にきたえられた新入りのころをなつかしく回想している。だが、彼は不運にも昭和44年9月、交通事故で短い生涯を閉じた。

そして山田義人(当時専務取締役)が迎えられた。勇次の長女・文子の夫で、明治大学図書館につとめていたが、その図書についての深い知識は出版事業などに生かされ、雄松堂の多角的展開の推進力のひとつとなっている。こうして多彩な人材が、時勢の激動にねばり強く対応する組織をつくりあげた。

本を愛し交わりを大切に

早大を卒業してから満夫がアメリカで修業したとき世話になったロスマン社のFred. B. Rothmanは、のちに息子のポール(Paul)を雄松堂で修業させた。そして創業40周年にメッセージを寄せて、1962年に雄松堂野球チームのメンバーとしてバッターボックスに立ったポールがホームランを打ったことをあざやかに思い出す、と記して、そのとき撮影したチームの写真を送ってきた。

1962年は雄松堂の創業30周年であり、満夫もその年の野球試合でホーマーを放ったが、彼は洋書商としてもしばしばホーマーをかっとばして、急成長させたといえる。彼はすぐれた国際感覚で洋書界の動きと研究者の求めるものをさとり、それに敏速に対応するエネルギーをもっている。そしてこの活動をささえるのは、何よりも本を愛し、人と人との出会いを大切にする心であった。

日本で国際古書籍商連盟と呼ぶILAB(Internatilnal League of Antiquarian Booksellers)は、1947年に組織されているが、そのモットーは、AMOR LIBRORUMNOS UNIT(本を愛する心は一つ)である。このモットーに共鳴して、日本古書籍商協会ABAJ(Antiquarian Booksellers Association of Japan)が1963年に10名の発起人によって創立され、翌年ILABに加盟したが、彼はその事務局長として協会を運営してきた。また日本からただ1人選ばれて、ILABの常任理事を数年間つとめた。

1973年秋、東京・九段のグランドパレス・ホテルで国際古書展が開かれて、海外から60余の一流古書展が参加したが、これは世界の貴重な文化遺産といわれる稀親書を大規模に交流する、日本ではじめての催しであった。彼がこれをプロモートできたのは、文化や言語はちがっても、「本を愛する心は一つ」であることを世界に呼びかけ、一流の古書店に信頼されているからである。

彼はまた、1974年に12名の同志とともにグロリアクラブを設立し、その事務局を雄松堂において会務を処理している。1884年に、ニューヨークの美術印刷業者Arthur B. Jurnurの呼びかけでつくられた愛書家の集まりが、アメリカのグロリアクラブの発端であるが、その精神にそった組織を日本につくったわけである。これは本の内容を研究するよりも、本の芸術性、文化性を語り合う集まりであり、その会合にはしばしば海外の愛書家を招いて、栄光に輝く芸術品としての本を論じている。

これらの活動は、欧米の書店、学者との親しい交わりによってささえられている。すでにふれたように、彼はロスマン2世の日本での修業を助けたが、彼らとの家族ぐるみのつきあいを重んじる。昭和52年(1977)には、ジャン・ジャック・マジス社の2世Denis Magisを、昭和55年(1980)には、コリン・シャーロット・フランクリン社の2世Gideon Franklinを、それぞれ半年ほど家庭に預って、日本の文化を理解することを助けている。このような親密なつきあいも、洋書の輸入を活発にする要因のひとつである。

Rare Booksの交流

1966年の第1回洋古書展
▲1966年の第1回洋古書展

第2回国際古書展
▲第2回国際古書展

彼の外遊は、すでに50回を越えているが、若いころ、大英図書館でガラスのケースに陳列されていた4冊のFAMOUS BOOKSを見たときの強い印象を忘れることができない、という。その4冊は、グーテンベルグ42行聖書、カクストン版『イソップ物語』、『シェイクスピア全集』ファースト・フォリオ、ケルムスコット版『チョーサー著作集』である。「洋書の輸入を一生の仕事」ときめた彼は、このような美しいRare Booksを、自分の手で扱ってみたい、と思った。

欧米の古書店や蔵書家をめぐり、カタログ注文で買い集めること数年、ようやくRare Booksの在庫がふえた。そして41年(1966)夏、はじめての洋書展を京王デパートで開いた。そのおもなものは、米国歴代大統領自筆コレクション、フランス革命資料、インキュナビラ、ワイマール版『ゲーテ全集』、フランスの18世紀古地図集、小泉八雲コレクションなどであった。この展示会は、大学図書館やコレクターの雄松堂に対する関心を高めた。ある新聞は、「マルクス資本論の英語版初版をめぐって学者同士がジャンケンで買い手をきめた」と報じている。

翌42年(1967)は創業35周年にあたり、3月京都に関西営業所を開設、11月に東京・新宿の伊勢丹で約400点、6千万円という規模の第2回国際古書展を開いた。読売新聞が「これだけの規模のブックフェアが日本で催されるのは初めてのこと」と報じ、「開催前の招待日に約半数が売約済み」という人気を博した展示会である。

ここでもっとも注目されたのは、『シェイクスピア全集』フォリオ版である。その1685年刊フォース・フォリオは日本にもあったが、これより早い時期のものはなかった。そんなとき、セカンド・フォリオ(1632年刊)とサード・フォリオ(1664年刊)を、イギリスのある蔵書家から譲り受けて公開した。このほかエンゲルスの署名入りマルクス『資本論』初版、マルクス自筆書簡、イギリス歴代首相自筆コレクション、ベートーベン、メンデルスゾーン、シュトラウスらの自筆楽譜、さらにカクストン版、ケルムスコット版、リカルディ版、プレイク彩飾詩集などの美麗本を並べた。

いずれにしても、ある新聞の見出しのように、「収集家からため息」のもれる展示会であり、文化遺産としての価値ある男Rare Booksを日本で収集し研究する意欲をかきたてる、強烈なインパクトを与えた、といえる。『シェクスビア全集』のサード・フォリオは、1666年のロンドン大火で、その出版社の倉庫が焼けて、残存部数がもっとも少ないとされているが、展示されたものは天理図書館に収蔵された。国際的なコレクターであった中山正善氏は、その11月14日に急死し、これが「最後の買い物」であった、という。

『週刊サンケイ』では、阿部賢一早大総長が、「西洋のりっぱな本を一堂に集めて、しかもこれほどさばけるとは日本も文化的に向上したもんだな」と語っている。また同じ誌面で、松村竜一氏(日本古書籍協会副会長)は、「外国で本を買うには、技術と力と、さらに度胸がいります。新田さんはこの点じゅうぶん。加えて若さ、語学力、資本力もあるし、しかもアイデアが実にいい」と言っている。

これは雄松堂の性格と社長としての彼の活動をよく知るものの評価である。そして彼は、そのアイデアと力と度胸で、すぐれたスタッフを養成して、世界の洋書市場をたくましくかけめぐっている。

彼は1981年6月号の「図書』(岩波書店)に、「西洋の古書と25年」と題して、天理図書館に世界有数といわれる西欧製古地球儀コレクションを納め、M大学のシェクスピア・コレクションを世話したことや、北陸のある工科大学の図書館作りのために科学史の名著をたずね歩いたことなど、Rare Booksさがしの楽しみを語っている。ロンドンの入札会で入手したアダム・スミスの書簡4通は、『アダム・スミス伝』のなかで、すでに行方不明とされていた重要なものであった。それをある学者から聞かされて、彼は驚喜したが、このような小さな資料の堀出しが学者の研究を深めるもとになることを実感した。これは洋書商としての生きがいでもあり、ひとつの文化的役割を果すことにつながる。

学術情報をより早く

ところで、特定の学者や図書館を対象として1点ずつ販売する古書には、ひとつの限界がある。東西文化の交流という大きな目標のためには、より広い活動が求められる。その意味で、洋書リプリントや新刊書を導入するルートを、雄松堂の機構のなかにつくりあげた。そしてこのルートでより新しい学術情報を、日本の研究者により早く伝えるようつとめている。

学術雑誌のバックナンバーなどは、すでに初代勇次のときから扱いはじめているが、彼は、それを海外書店の総代理店契約の形でより確かな強いものにした。マイクロフィルムのUMI社とは、すでに述べたように昭和37年(1962)に特約しているが、40年(1965)には世界一の文学書リプリント出版社であるAMS社(AMS Press Inc.)の日本総代理店となった。

またフランスのラルース社と特約して、La Grande Larousse Encyclopédie(全10巻)を販売する大仏百科株式会社を設立した。この別会社はのちにニューフィールド図書販売株式会社と変更され、さらに46年(1971)4月には、本社にあった代理店事業部を拡大独立させる形で、卸売業務専門の新会社PIC (Publishers International Corporation)を設立した。

PICが代理店となっているのは、AMS社のほかDa Capo Press, Inc. Greenwood Press, Inc. Keip Verlag KG. Havester Press Microfilm Publications Ltd. Shoe String Press, Inc. Newspaper Archive Development Ltd. Clio Press Ltd. Chadwyck-Healey Ltd. Times Books Ltd.など数多い。タイムズ社の世界地図帖『タイムズ・アトラス』は1895年の初版から、常に新しい正確な情報を盛って増補し、版を重ねている世界最高の地図であるが、PICは第4版から継続して扱っている。その普及によって、マップと呼んだ地図をアトラスと呼ぶようになったという。

本社機構の中では、UMI社のほかKraus Reprint. Fred B. Rothman & Co. Matthew Bender & Co. Matthew Bender & Co. Inc.などの代理店業務を扱っている。UMI社の学位論文集は、アメリカとカナダの最新の研究動向を知る有力なルートである。またイギリスで出版されている1475年からの総合出版目録(Short Title Catalogue)に収録された本のマイクロ化を進めており、そのコピーは大学図書館や研究者の需要が多く、研究論文の作成に役立っている。

独創性ゆたかな半世紀へ

雄松堂のニューフィールドビル
▲雄松堂のニューフィールドビル

こうして彼の積極的な企画・活動は順調にのび、経営は多角化して、43年(1968)10月、新宿区三栄町29番地に新社屋を建設した。鉄筋コンクリート建約1000平方メートルで、「新田」にちなんで「ニューフィールド・ビル」と名づけた。太平洋戦争後、小石川で再起したときは、店舗のない古書商であったが、それから20年にして、近代的ビルをもつ会社に成長したのである。

古書はもちろん、リプリント、新刊書の流通、マイクロフィルムの製作、出版事業と、それぞれに競いあって、経営は拡大し社員もふえた。50周年を迎えた1982年は90名を数えている。ニューフィールド・ビルでは手狭になって、昭和55年(1980)11月には、文京区大塚3丁目42番地に鉄筋コンクリート4階建550平方メートルのビルを購入した。これを「第2ニューフィールド・ビル」と名づけ、出版事業部、営業開発部とPICをおいている。そして彼らは、かつて会長が自転車で走った道を自動車でかけめぐり、世界にテレックス網をひろげて、本の情報を集めている。

父子二代にわたって、書物とともに歩いた半世紀は、学者にはぐくまれた半世紀でもあった。そして国際的な信用のもとに、洋書の輸入と学術書の出版によって学界に寄与することが、雄松堂グループの信条のひとつである。半世紀の体験をかえりみて、彼らはいま、雄松堂らしい新たな半世紀を、独創性ゆたかに進もうとしている。

かつてシルクロードを旅した隊商は、中近東やギリシャ、ローマの文化を中国にもたらし、その末流は正倉院に及んでいる。近世には、南蛮船あるいは紅毛船がヨーロッパ文化を日本に運び、近代化への情報をもたらした。雄松堂グループの活動も、隊商や南蛮船・紅毛船の果した役割に似た一面をそなえている。そして経営規模の現段階は、まだ紅毛船のようなものかもしれない。それが大洋を快速で航行する豪華船となるか、大空を飛ぶ大型ジェット機となるかは、新しい半世紀にどう対応するかにかかっている。

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