丸善の歩み/丸善創始の話

岐阜の一医者を巻き込んだ幕末という激動の時代

丸善の創業者早矢仕有的は最初から実業家を目指したのではありませんでした。有的は天保8年(1837)美濃国武儀郡、現在の岐阜県生まれ、早くに死んだ父親の後を継いで医師を志し、18歳のときに郷里で開業しました。しかし時代の急速な流れは、有的を地方の一医師だけに終わらせませんでした。時は江戸時代末期、 嘉永6年(1853)にはペリーが浦賀に来航し、世の中は歴史の転換期を迎えていたのです。その頃、優秀な医師として活躍していた有的は、庄屋・高折善六(たかおりぜんろく)にその才を見いだされ、江戸へ出ることになったのでした。篤志家の善六は有的に餞別として金十両と和歌を贈り、有的は江戸へと旅立っていきました。そして江戸では蘭方医・坪井信道(つぼいしんどう)等に学びながら、日本橋橘町で開業。文久3年(1863)に結婚、次いで郷里美濃国岩村藩主のお抱え医師になるなど、青年医師として順風満帆の人生を送っていました。しかし有的はさらに大きな変化を遂げようとしていました。

福沢諭吉との出会い

 世界の覇権がオランダからイギリスに移り、日本でも知識人の興味は英学へと移っていきました。蘭学だけでなく英学を学ぶ必要性を感じた有的は、慶応3年(1867)当時評判の福沢諭吉の私塾(後の慶應義塾)の門を叩くことになります。これが有的の人生においてターニングポイントとなり、塾の主宰者・福沢諭吉こそが有的にとってのキーパーソンとなっていきます。塾で有的は2歳年上の諭吉から英学はもちろん「経済」を学び、医業以外の自己の可能性を拡げていきました。一方、諭吉は有的に実業の才能を認め、有的をバックアップ。有的は、入塾して2年後の明治2年(1869)、自らが居住する横浜に「丸屋商社」を創業したのでした。創業にあたって定められた『丸屋商社之記』は日本初の会社設立趣意書ですが、一説には諭吉自身の手によるものといわれ、諭吉の思想がベースにあったのは間違いありません。実際、開業当時は主に諭吉の著作販売を手掛け、同時に医薬品と医療器具の輸入を行っていました。有的自身も実業家というより、肩書きは横浜黴毒病院の院長であり、医師として多くの患者の治療に当たっていたのでした。

新しい時代に世界を相手にした商売を

丸屋商社之記▲

 明治という新しい時代を迎え、輸入販売を行う丸屋商社は創業の翌年に東京日本橋に店を開設。その翌年には大阪、翌々年には京都にと支店を設けていきます。早矢仕有的が『丸屋商社之記』のなかで、「人世ノ急務タル教育ノ職済生ノ業ノ如キ」「故に吾社先此品類ヲ売買スルヲ以テ事業トナサントス」と説いたとおり、人の世の急務である教育や命を救うために、まず洋書や薬品、医療器具などを専門に扱うことからはじめ、書店、薬店につづき明治4年(1871)に唐物店(西洋小間物雑貨販売)、5年(1872)に仕立店(裁縫店)、6年(1873)には指物店(西洋家具の製造販売)などを展開していきます。西洋文化・文物の導入という創業の目的のもと、書籍はもちろん、万年筆、タイプライターをはじめ新しい時代にふさわしいさまざまな商品を輸入紹介、明治30年以前の商品カタログの取扱商品には、シャツ・手袋・煙草・ランプの芯・マッチ・石鹸・帽子・鉛筆・バター・ウスターソース・カレー粉・コンデンスミルク・ビール・リキュールなどがみられます。

時勢を察して多角的な経営を展開

 丸善は明治2年(1869)書籍・薬品を商う丸屋として出発し、その後多角的な商売をはじめることになったわけですが、多岐にわたったのは商品だけはありません。明治4年(1871)に「細流会社」設立、零細な資金を集めて大事に備える社内「積立貯金組合」は、その積金が大きくなったため明治8年(1875)、新たに貯蓄銀行に類似した金融機関を設立、「交銀私局」と名づけました。さらに政府が国立銀行以外でも銀行の名義を認め、あいついで普通銀行の設立が行われるようになると、時勢を察することに明敏であった有的は、明治12年(1879)にこれらと並んで「丸家銀行」を設立することとなりました。明治13年(1880)には外国為替銀行として政府と民間の出資で発足した横浜正金銀行の設立に参画(初代頭取は丸善重役の中村道太)するなど、丸屋商社は書籍・文具の輸入にとどまらず、製造から金融部門まで一種の総合商社として事業を拡大していきます。また明治7年に社員の福利厚生のために定められた「死亡請合規則」は、我が国最初の生命保険会社(後の明治生命保険)へと発展しました。 早矢仕有的は、福沢諭吉を師として英学を修め、志を同じくする友人としてその理念を受け継ぎ、外国と交易して海外知識の移入と文物の交流をはかることを念願し推し進めました。時代を読む先取の精神と旺盛な合理的精神によって多くの業績と逸話を残した有的は創業時から明治18年(1869-1885)まで初代社長をつとめ、明治34年(1901)に64歳の生涯を閉じました。

「丸善」に込める想い


▲明治初期の日本橋店
 現在の社名「丸善」と名乗ったのは、明治13年(正式には「丸善商社」)のこと。創業当時は「球屋商社(まるやしょうしゃ)」でした。ところが、マリヤ、タマヤと間違われ、「丸」に改めたといいます。そして会社名義人(今でいう社長のこと)は「丸屋善八」となっていますが、これは有的が考えた架空の人物で、かつて江戸行きを支援してくれた高折善六の恩を忘れまいとつけたと伝えられています。これが省略されて顧客らから「丸善さん」と呼ばれるようになり、「丸善商社」に改称したという経緯があるのです。会社名義人に架空の人物の名を記していたとは現在では考えられないことですが、丸屋商社の「丸」には“地球”という意味が込められており、社名には、有的や諭吉の新しい時代に世界を相手に商売をしようという気概を感じることができます。そして、それは脈々と受け継がれ、現在では伝統を大切にしながら新しいものにチャレンジする精神へとつながっているのです。

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