丸善雄松堂

學鐙の歴史

 1897年[明治30年]に創刊され,1901年[明治34年]に内田魯庵が初代編集長になって「地味ながら深い学識に基づく」と いう本誌の骨格が形づくられました。関東大震災で9ヵ月,戦中・戦後の7年間休刊を余儀なくされましたが,創刊から200 3年[平成15年]まで月刊をつづけました。2004年[平成16年]から季刊となり(2008年[平成20年] 秋号,冬号は刊行せず), 2009年[平成21年]から2011年[平成23年]までは年2回の発行,2012年[平成24年]から季刊に戻っています。
創刊号表紙

創刊号

概要

発行日: 1897年[明治30年]3月15日
誌 名: 學の燈(まなびのともしび),
     “The Light of Knowledge”と英語を付記。
構 成: 本文28ページ,広告(赤の色紙)16ページ
本 文:  発刊之辞/祝辞/論説/雑録/
     詞苑(詩歌俳10首)/新刊紹介/雑報

発刊の辞

題して學の燈という,アーク燈か蛍火か,吾人之を知らず,照らすものは 照らすの理あって,これを点するのみ,其の果して効の需(もと)むべきや 否やは,社会各人に於て存す,吾人敢て,之を人に強いず,若し夫れ四面 暗黒,乾坤晦瞑の夜,行人途に迷うものあらば,一道の榾火(ほたび), 尚お以て能く前程を導くに足らんも,月光天に輝き,火燭前後を照らすあ らば,三千燭光の電燈,亦何の要なけんのみ。今の学界,果して晦瞑暗黒な るか,将来白日晴天なるか,吾人亦之を知らず,然れども,三光天に輝くも 必らず陰翳あり,燈火満街を輝らすも,台下或いは暗を破らず,一燈を加う るもの自ずから一燈の用を為す,吾人此の挙,豈必ずしも斯道に少補なから んや。
(注:難読と思われる漢字に読みを付記し漢字は新字体に改めた)

創刊~第5巻55号(1901年[明治34年]12月)

『丸善百年史』にこの時期の「『學の燈』は社内で文章のへたの横好きが寄りあって原稿を書く同人雑誌のようなもので, 名家の寄稿などは少なく,巻末を占める洋書の広告が主として読む人に役立ったものであろう」と記されています。内田 魯庵が編集長に就くまでは狭義のPR誌でした。

この時期の特筆すべき「洋書広告」を紹介します。

第1巻第8号(1897年10月)の洋書広告 英訳「忠臣蔵」

洋書「忠臣蔵」について以下『丸善百年史』から抜粋・引用する。

本書初版は1875年(明治8年)に横浜で出版されたが,この三版が英国で出版され て非常に流布し遂にSixpenny Library版となった。… 訳者をDickensと早のみこみして 紹介した英学者がいたが,そうではなくて,明治に早くに日本に来住した英国の 弁護士である。… 本書は「仮名手本忠臣蔵」を翻訳したもので,すぐに仏語版 ,独語版があらわれた。… 日露戦争で米国大統領セオドア・ルーズベルトが日 本に非常に好意をもつ講和斡旋をしたのは,ルーズベルトが22,3歳のころこの訳 本を読んで,日本人が任侠義に勇む特殊な国民性なのを知り,それから日本に多 大の関心をよせ,新渡戸博士の『武士道』をよんでいよいよ感心し,柔道なる独 特のアスレチックのあるを知って … 家に道場をつくり柔道までまなんでいた のだ。… 彼は米国人で最初のノーベル平和賞を受けたが,その原因は … 「忠義浪人」(注:忠臣蔵)の英訳にあると極限してもあやまりではない。 

第6巻56号(1902年[明治35年]1月)

表紙
本号から内田魯庵が編集長(歴代編集長は下記を参照)

誌名と表紙を一新

誌名:學燈
表紙:19世紀フランスの画家シャヴァンヌの「ラ・ヴィジランス」をイメージ


本誌のエポックとなる「19世紀における欧米の大著述についての諸家の答案」を
 
3回にわたって掲載。

『學鐙』歴代編集長

  • 内田魯庵(うちだ・ろあん)評論家,翻訳家,小説家

    在任期間: 1902年[明治35年]1月号 ~ 1929年[昭和4年]7月号(?)
    生没年 : 1868年[慶応4年]5月26日 ~ 1929年[昭和4年]6月29日(61歳)
  • 水木京太(みずき・きょうた)劇作家,演劇評論家

    在任期間: 1930年[昭和5年]6月号 ~ 1943年[昭和18年]3月号
    生没年 : 1894年[明治27年]6月16日 ~ 1948年[昭和23年]7月1日(54歳)
  • 本庄桂輔(ほんじょう・けいすけ)劇作家,演出家,フランス演劇研究者

    在任期間: 1952年[昭和27年]1月号 ~ 1984年[昭和59年]6月号
    生没年 : 1901年[明治34年]5月24日 ~ 1994年[平成6年]8月27日(93歳)
  • 北川和男(きたがわ・かずお)社員

    在任期間: 1984年[昭和59年]7月号 ~ 1998年[平成10年]12月号
  • 石川昌史(いしかわ・まさし)社員

    在任期間: 1999年[平成10年]1月号 ~ 2008年[平成20年]夏号 
    ※ 2008年秋号,冬号は刊行されず。
    ※ 2009年[平成21年]春号より発行元が丸善(株)から丸善出版(株)に移行。

19世紀に於ける欧米の大著述に就いての諸家の答案

内田魯庵が編集長に就任して最初に手掛けたのが誌名と表紙の変更,および「19世紀に於ける欧米の大著述に就いての 諸家の答案」(以下「答案」)でした。この「答案」は当時の文化界各方面の読書家70余人(『丸善百年史』)にアン ケート調査したもので,3回にわたって掲載されました。その結果の一部を以下に示しますが,

「答案」が本誌の洛陽の紙価を著しく高めました。「答案」の趣旨は「19世紀における学術文章の一大壮観にして巨編名 什(注:名著)の称あるもの二酉五車(にゆうごしゃ,注:蔵書の多いことのたとえ)もただならず,道を学ばんとする ものは万巻の書架に対して却って頼る処を失う,ここにおいて弊社は博洽(はっこう,注:広く種々の学問に通じている こと)の専門学者に質すに19世紀及びその晩年の大著述を以てして,輯(あつ)めて以て読書社会の針路たらしめんとす」

と記されています。つまり,専門家に推薦図書をあげてほしいということですね。 「答案」の結果のベストファイブは以下の通り。
  1. 種の起源(ダーウィン)
  2. ファウスト(ゲーテ)
  3. 総合哲学大系(スペンサー)
  4. 意志及び表象としての世界(ショーペンハウアー)
  5. 実証哲学講義(コント)

第6巻59号(1902年[明治35年]4月)

社告:ビブリオグラフィーという編集方針を打ち出し,「当『學鐙』義は本年以後全く編集の組織を一変し専らビブリオ グラフィーを主とし及ばずながら読書界に貢献致す計画仕候」と宣言して,地味ながら深い学識に基づく書誌によって本誌 を特徴づけようとしました。地味ながら深い学識に基づくという編集方針は、その後長い間受け継がれることとなりました。

第7巻1号(1903年[明治36年]1月)

表紙
誌名の変更:『學燈』から『學鐙』へ

誌名の変遷

誌名の変遷

創刊当初『學の燈(まなびのともしび)』と称し,1902年[明治35]に『學燈』と改題して,さらに1903年に『學鐙』と 改めましたが,その後長い間『學燈』と『學鐙』が混用され,『がくとう』『ガクトウ』という表記が使用されたことも あります。さらに1924年[大正13年]7月号から1942年[昭和17年]1月号まで“GAKUTO”というローマ字を使っていました。 その後,『學鐙』という誌名は1942年2月号から現在に至るまで変わっていません。戦中・戦後の7年間の休刊の後1951 年に復刊した際に『學燈』を使うつもりでしたが、戦後すでに『学燈』という受験雑誌が刊行されていたため『學燈』 は使用できませんでした。ちなみに学燈社の『学燈』(1948年創刊)は2009年休刊しています。 1903年に内田魯庵が『學燈』を『學鐙』に代えた訳を『丸善百年史』で,木村毅は「普通に燈はともしび,鐙はあぶみ と読み,光明の燈火が,学問に乗る鞍に代ったのかと誰しも思う。近ごろこそ『學鐙』におちついたが,時ありて燈と 鐙を混用しているので,惑いを招いたものの,魯庵のつもりでは鐙は燈の古字であり,正字であるから,つまり変更した という気もちは全く無かったのだ」と記し,また同じく『丸善百年史』で,中西敬二郎は「『學燈』が『學鐙』に変った のは,… 鐙が登隆(ママ)を意味するからで,本誌が登龍門を意味する自負によるものであるかも知れない。ただし 両題目が久しい間混用された」と記しています。 

第14巻7号(1910年[明治43年]7月)

大逆事件と魯庵:明治政府による未曽有の冤罪事件である大逆事件で幸徳秋水が1910年 6月に逮捕(翌年1月処刑)されました。しかし「すこし見識ある国民は皆疑念の目を もってこれに対した」(『丸善百年史』)。

魯庵は幸徳秋水逮捕の1ヵ月後にフランス革命(洋書)の1ページ広告を掲載したり, 木下尚江(幸徳秋水,片山潜,堺利彦らの社会民主党の結成に参加。日露戦争では非戦 論を唱える)の講演会を主催するなど, 大逆事件に強い疑念をもち社もこれを忌避しま せんでした。
フランス革命(洋書)の
1ページ広告を掲載

大逆事件と魯庵

大逆事件で幸徳秋水が1910年[明治43年]6月に逮捕された翌月の7月号の『學鐙』に魯庵はクロポトキン著 “The Great French Revolution 1789-1793”の1ページ広告を掲載し,そのコピーに「現代希有の偉大なる革命児として全欧を震慴 (しんしょう,ふるえ恐れる)するクロポトキンの熱烈なる思想を包めるの冷静なる文字を以てこの人間の最高頂を伝 えたる如き蓋し近時の偉観にあらずや」と記し、大逆事件で逮捕された被告が「不倶戴天の国賊」とされた時節に革命 を称揚する広告を掲げました。また,魯庵は8月号に砂邸子のペンネームでロシア皇帝に飛弾が命中して幕となる 「Oscar WildのVera」という革命劇を載せています。さらには,社会主義の影響力では幸徳秋水をしのいでいた木下 尚江(キリスト者であったため大逆事件の連累はまぬかれた)の講演会を主催するなど,精一杯のプロテストを行いま した。以下『丸善百年史』を引用します。

「丸善が大逆事件に同情的態度をとったことは,その進歩性が賞揚されてよい。しかし,魯庵はいささか彼らに接近し すぎて,保守的重役の危ながるところとなり,大正に入ると,今まで「献策して行われざるなし」の信用がさめて,急 に重要会議への参加からはずされ,社から疎外されてきた様子がみえる」。

第27巻8号(1923年[大正12年]8月)

この年9月1日に発生した関東大震災で本号は焼失し発行できませんでした。本社社屋も焼失し,1924年[大正13年]5月まで 9ヵ月間休刊を余儀なくされました。

第32巻2号(1928年[昭和3年]2月)
 ~ 第40巻3号(1936年[昭和11年]3月)

この間は記事が1~3本しかなく,他は広告

「昭和に入って魯庵は身体の調子をこわして欠勤がちとなったため,当社の広告課が魯庵の仕事を踏襲。魯庵は1929年 [昭和4年] 他界し,しばらく専任の編集者を置かなかった」(『丸善百年史』)

魯庵の後任として水木京太が1930年[昭和5年]6月から編集長に就任

水木はこのときから東司郎のペンネームで本誌に執筆。その回数は70回にも及びます

第40巻4号(1936年[昭和11年]4月)
 ~ 第47巻12号(1943年[昭和18年]12月)

この間,水木編集長の下,充実した記事が掲載

戦前・戦中期で,「時局の厳しさ」を枕詞のように付記する記事もありますが,多くは「紅旗征戎非吾事」を貫いています。 この方針は戦後も長い間受け継がれました。

第47巻12号(1943年[昭和18年1]12月)で戦争のため休刊

第48巻1号(1951年[昭和26年]1月)

復刊第1号(復刊の言葉)

復刊の言葉

第49巻1号(1952年[昭和27年]1月)

本号から本庄桂輔が第三代編集長に就任

第二代編集長・水木京太は1948年[昭和23年]7月 逝去
 復刊から1年間は八木佐吉が編集長を務めた

『丸善百年史』に本庄編集長の方針について次の記述あり

「『學鐙』の内容について集約すれば,一流の執筆陣による書評・随筆を中心に,外国書などを通じて広く外国文化の 姿を紹介する雑誌ということになろうか。戦後の『學鐙』の大きな特徴としては長期の連載ものを掲載していること があげられる。これら長期の連載ものは完結後多く単行本にまとめられて他店で出版せられいずれも好評を博した」

第50巻3号(1953年[昭和28年]3月)

本誌50巻を記念して3月30日~4月15日「「學鐙」50年展」を開催。この時点で50年を 経た雑誌は「中央公論」「東洋経済新報」「実業の日本」だけです。

第60巻10号(1963年[昭和38年]10月)

學鐙60周年記念号

目次

第66巻1号(1969年[昭和44年]1月)

丸善創業100年記念特集号

社長の挨拶

第81巻6号(1984年[昭和59年]6月),
 第81巻7号(1984年7月)

第81巻6号で本庄 編集長 退任(83歳)

6号の後書きに記された「お別れの言葉」に
「4月号の本欄で紹介した『狂乱のパリ』は3階の売場 (注:洋書売場)でも30冊出たそうで最後の後書きにうれしい報告ができました。では皆さんAdieu!」
とあり最後の言葉はフランス語でした。

7号から第4代編集長・北川和男が就任

7号の後書きに北川編集長が
「大気汚染甚だしい世の中です。その中で本誌はぶらぶらと「森林浴」の出来る森に,広場にと思っています。…いろいろと考えても,雑誌は各号の出来がすべて-そうしたこわさを噛みしめながら,読者そしてご執筆の皆様に,新編集室よりご挨拶申し上げます」
と記していて「ぶらぶらと森林浴」と言いながらも緊張していることが窺えます。

第86巻1号(1989年[昭和64年]1月)

丸善創業120年記念特集号

第94巻1号(1997年[平成9年]1月)

『學鐙』創業百周年記念号

第96巻1号(1999年[平成11年]1月)

丸善創業130周年記念号

この号で編集長が交代し第5代編集長に石川昌史が就任

石川編集長の就任挨拶が「編集後記」に次のように載っていて初々しい意気込みが感じられます。
「本号から和書の書評欄を設けました。…様々な出版社の書籍を対象に読みごたえのある書評を毎月掲載していく予定です。新聞や商業誌ではとりあげられにくい書籍も扱ってゆきたいと考えております」。
他社刊行物の書評は「図書」や「波」などの出版社系PR誌にはなく,出版が当社の一部門にすぎなかったからできた企画で,地味ながら本誌のアドバンテージを具体化した意欲的な試みであった。

第100巻1号(2003年[平成15年]1月)

『學鐙』通巻百巻記念号

第114巻1号(2017年[平成29年]1月)

『學鐙』創刊120周年記念号

120周年を記念して日本橋店などで『學鐙』フェアを開催し蔵版を出版

丸善創業150年記念特別号(2019年[令和1年]6月)

表紙
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